愛についてマジメに考える

今回はスバリ愛についてです。

ざっくりとしたテーマでしょう。

愛は形として見えるわけではありませんから、

どういうものか、

どういう基準で愛と呼べるのか、

人それぞれ愛に対しての認識が違うものだったりします。

今は、愛情ホルモンのオキシトシンがメディアでよく取り上げられたり、

被災によって死を身近に感じることもあり、

愛を意識する機会も増えたようです。

人はどんなにつっぱっても、

つながりを求めてきました。

しかし、そうなると、愛を感じられていない人が疎外感や不足感を感じたりすることもあるかもしれません。

以前、他の記事でも書きましたが、

愛には与える愛と、受け取る愛があり、

実は繋がっていることを訴えました。

愛するのを難しいと感じる人からしたら、

愛を与えることも、

愛を受け取ることも、

両方難しいと感じていらっしゃるかもしれませんね。

おそらく、その原因となるのは、

傷つき体験からくる怖れや罪悪感のせいだったりします。

そして、愛の代わりに怖れを感じているのかもしれません。

どうせ私は誰からも愛されない

私に愛されても迷惑だろう

愛なんてものは信じられない

みんな私の元から去って行く

私は愛されような人間ではない

私は一人で生きていかなければならない

こうした愛にまつわる怖れや罪悪感があるために、

自分をいじめているのではないでしょうか。

だから、断言します!

まずは、自分は愛されていい存在であり、

自分は愛していい存在だと、

自分を許すことが大切です。

ありきたりの言葉ですが、これに尽きると思います。

自分自身が愛に値する人間だということを証明する必要はありません。

自分が愛するべき人間であるということを証明する必要はありません。

ただ、愛をもともと持って生まれてきたのだと信じることが重要なのです。

愛とは備わっているものなのです。

愛し方にこだわらず、過去も手放すことが大切です。

愛するに上手も下手もありません。

必要なのは、自分にそれを許すことです。

また、何をすれば愛しているということになるのかという形にこだわらない、

ということも大切です。

だからといって暴力は愛ではありません

愛しているということを示す特別の形は無いのです。

相手を抱擁していても、

そこに心が込められていなければそれは愛の形ではありませんし、

相手にイヤというときでも、

それが愛の形だということもあり得ます。

愛し方に違いがあり、自分からしたら、

え、それ愛だったんかい!

わかりづらいは!

ということでも、相手からしたら精一杯の愛を表現していたかもしれません。

どうしてもこちらが求める愛の形とは誤差があるかもしれませんが、

相手の愛し方を知ることで、少なくても愛されていることに気づくことはできますよね。

どうせ私は愛さる!

私はたくさんの愛を与えることができる!

私は愛に満ちたりている!

私は愛を信頼できる!

みんな私と共にある!

私は一人ではない!

怖れを手放し、

自分が愛を与えることも、

受け取ることも、

許し許可すること。

これができるようになったら怖いものなしですね!